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二本松少年隊顕彰祭で「いちごプロジェクト」推進活動

二本松法人会女性部会[ 社会貢献]

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二本松法人会(福島)女性部会は、7月28日(土)、「いちごプロジェクト」推進啓発活動を、「二本松少年隊顕彰祭」(二本松商工会議所青年部主催、二本松法人会後援)会場で実施した。
「二本松城跡公園」で開催された二本松少年隊顕彰祭には、市内外から多くの参加者があり、女性部会員が一人一人に「いちごプロジェクト」啓発用「チラシ」と「うちわ」を配るとともに、「節電は、毎日の生活でできることに少しずつ取り組むことが大切です。楽しく、無理のない節電に取り組みましょう。」と使用電力削減への協力を呼びかけた。
(2012)

【二本松少年隊(にほんまつしょうねんたい)とは】
慶応4年戊辰の役、当時幕末の二本松藩において、戊辰戦争に出陣した12歳から17歳の62名の少年兵部隊のことです。ただし、会津藩の白虎隊と違い当時は隊名がなく、二本松少年隊と名づけられたのは戊辰戦没者50回忌に刊行された「二本松戊辰少年隊記」からです。
戊辰戦争への出陣は12歳や13歳では不可能ですが、二本松藩には危急の際には年齢を2歳加算する『入れ年』(実年齢より高い年齢として出兵の許可を出す)の制度があり、最少年齢の隊士の年齢は12歳(現在ですと小学5年生)でした。
藩の西洋流(高島流)砲術師範、木村銃太郎指揮下の25名が特に有名で、大壇口での戦いにおいて木村をはじめその多くが戦死し、負傷して称念寺に運ばれた者もいましたが、やがては息絶えてしまいました。
(木村は、元は同じ武衛流師範で、後に江戸留学の際に西洋流の高島流砲術を習得しました。享年22歳)
落城は誰もが予測したことでありましたが、奥州越列藩同盟の信義のために戦った二本松藩の玉砕戦は他の藩には見られない壮絶な最期でした。戊辰戦争における悲劇のひとつとして知られています。
二本松藩主丹羽家の菩提所である大隣寺境内には、戊辰戦争殉難者群霊塔と共に、二本松少年隊長・木村銃太郎、副隊長二階堂衛守と14名の少年隊戦死者の供養塔が建立されています。
本年の大隣寺での墓前祭にも長州藩士の子孫の方が参列し、義に殉じ戊辰戦争に壮絶なる戦死を遂げた二本松少年隊士を弔う参詣者の香煙が絶えません。
また、戦いの場となった大壇口の地には、当時、大壇口を攻撃した野津七次(後の元帥陸軍大将野津道貫)が詠んだ
“うつ人も うたるる人も あわれなり
          ともにみくにの 民をおもえば”         
 さらに、陸軍大将、木越安綱の詠んだ
      “色かえぬ 松間の桜 散りぬとも
          香は千代に 残りけるかな”
               の歌碑が建立されています。
二本松城跡である霞ヶ城公園には群像彫刻や顕彰碑が立っており、大壇口の戦において戦死した少年たちを惜しみ7月28日を命日として、毎年、二本松少年隊顕彰祭が二本松城跡で、7月29日には墓前祭が大隣寺でおこなわれています。

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